グァテマラ大特集!

Guatemalaという国    グァテマラより(2009.01.28更新)


(石の台と棒でトウモロコシをひくマヤの女性)

グァテマラより


2009年1月28日

!!!!! 緊急行動にご協力ください !!!!!

 グァテマラ共和国ウエウエテナンゴ県サン・イデルフォンソ・イシュタワカンで、モホマヤス(コナビグア<連れあいを奪われた女性たちの会>青年組織)のリーダー2名が殺害され、1月23日朝、遺体で発見されました。
 日本ラテンアメリカ協力ネットワークではモホマヤス代表のロサ・アマンダ・ペレスさんを昨年10月に招聘し、スピーキング・ツアーを行い、モホマヤスの活動を応援していましたが、最悪のことが起こってしまいました。ロサさんを始め、モホマヤスのメンバーは大きな衝撃を受けているそうです。ぜひ、皆さんのご協力をお願いいたします。

【殺害されたモホマヤスのメンバー】

1.サンティアゴ・ペレス・ドミンゴさん(男性・26歳)
かなり以前からコナビグアとモホマヤスの活動に積極的に参加。モホマヤスのマム地域コーディネーターや、先住民族の集団の権利尊重を求める運動の地域プロモーターを務めていた。

2.マリア・デ・ラス・メルセデス・オルドニェス・メンデスさん(女性・19歳)
モホマヤスの地域リーダーとして、研修や地域での活動に積極的に参加。

 2人とも特に最近では、イシュタワカンの鉱山開発問題調査において地域の中心となって活動してきており、その報告書発表の準備を行っているところでした。彼らがこれまで直接脅迫を受けていたかなど、まだ詳細は把握されていませんが、2人とも上記のような活動を進めてきた地域リーダーであり、先住民族の権利・人権尊重を求める活動家・組織への脅迫やあけすけな嫌がらせ等が続いていることから、コナビグアではこれは一般犯罪ではなく、活動家を狙った計画的な犯罪であると見ています。
 サン・イデルフォンソ・イシュタワカンの鉱山開発については、1年ほど前に出されたコナビグアの報告書によると、地下トンネル掘削を原因とする耕地の地割れ、水源の汚染及び渇枯、それに伴う農作物の品質低下や家畜の死亡率増、様々な病気(気管支系及び消化器系の病気、結核他の感染病など)の増加、森林破壊によるマヤ聖地の破壊などを引き起こしています。

 日本ラテンアメリカ協力ネットワークでは、ハガキ・メールによる抗議キャンペーンを展開します。ハガキにスペイン語の文面を記載して署名をし、70円分の切手を貼って投函してください。なお、ご協力いただける方は政府の各機関へ送っていただいたり、お知り合いの方とともに複数枚出していただくなどしてくださると、より一層効果的です。

 メールでご協力いただける方は、以下のアドレスにお願いします。

【ハガキ文面】

Estimado Señor:
Por medio de la presente, condenamos fuertemente el asesinato de Sr. Santiago Pérez Domingo y de Srita. María de las Mercedes Ordoñez Méndes, miembros activos del MOJOMAYAS (Movimiento de Jóvenes Mayas) - CONAVIGUA, ocurrido el día 23 de enero de 2009 en San Idelfonso Ixtahuacan, Huehuetenango, y le expresamos nuestra profunda preocupación por amenazas contra los activistas defensores de derechos humanos y derechos de los pueblos indígenas.
Solicitamos al gobierno de Guatemala;
1) Realizar la investigación exhaustiva y ágil para esclarecer este hecho y aplicar la ley a los responsables, y
2) Asegurar la seguridad e integridad física de los activistas pro derechos humanos e indígenas.
Atentamente,

Firma (署名) 
Fecha (日付)


【ハガキ文面の日本語訳】
拝啓
 1月23日にウエウエテナンゴ県サン・イデルフォンソ・イシュウタウアカンにおいて、モホマヤス(マヤ青年運動体)-コナビグアのリーダー、サンティアゴ・ペレス・ドミンゴさんとマリア・デ・ラス・メルセデス・オルドニェスさんの2名が暗殺された事件を強く非難し、また人権や先住民族の権利のための活動家の安全が脅かされていることに対し深い憂慮の念を示すものです。
 グアテマラ政府に対し次のことを要請します。
1. 事件の厳正で迅速な調査を行い、責任者を法的に処罰すること
2. 人権や先住民族の権利のための活動家の安全と生命を保証すること
敬具

【ハガキ送付先】

グアテマラ共和国大統領
Licenciado Alvaro Colom Caballeros
Presidente de la República de Guatemala
Casa Presidencial
6 Avenida 4-18, zona 1
Ciudad de Guatemala
Guatemala

内務省大臣
Señor Salvador Gándara Gaitán
Ministro de Gobernación
6 Avenida 13-71, zona 1
Ciudad de Guatemala
Guatemala

公共省(検察)
Licenciado José Amilcar Velásquez Zarate
Fiscal General del Ministerio Público
15 Avenida 15-16 zona 1, Barrio Gerona
Ciudad de Guatemala
Guatemala

人権擁護局
Doctor Sergio Fernando Morales Alvarado
Procuraduría de los Derechos Humanos
12 Avenida 12-72, zona 1
Ciudad de Guatemala
Guatemala

イシュタワカン治安判事
Licenciado Vicente Jiménez Sales
Juez de Paz
Calle de la Excelencia
Municipio de San Ildefonso Ixtahuacán
Departamento de Huehuetenango
Guatemala


【E-mail】
大統領    cbarrientos@presidencia.gob.gt
         mgarcia@presidencia.gob.gt
内務省     anaruthroman7@gmail.com
公共省     fiscalgeneral@mp.gob.gt
人権擁護局 dramirez@pdh.org.gt

(Hotmail, Yahoo, Gmail アドレスからのメールはブロックされてしまう可能性があります。
できる限りこれらのアドレス以外でお送りください。)


2007年12月4日

10月に再訪したグァテマラの報告です。この原稿とアイヌの皆さんの感想や、受け入れたグァテマラの女性たちの感想も載せた「そんりさ特集号」がレコムより発行されましたので、興味のある方は買ってみてください。
 そんりさ購入申込→日本ラテンアメリカ協力ネットワークHP


わかちあう旅 ~アイヌ女性のグアテマラ訪問に同行して~】

 一昨年のハリケーン被災調査に続き、丸2年経った今年、またグァテマラへ行く機会に恵まれました。今回の目的はレコムで長年続けているコナビグア支援の一環として、支援している地域コーディネーターの活動を見てくることがひとつ。それから昨年のスピーキング・ツアーの際、北海道でアナさんを受け入れてくれた「さっぽろ自由学校『遊』」と「アイヌの女の会」が、アナさんの活動を見たい、グァテマラの先住民族女性と交流をしたい、ということで、ツアーを企画したため、それに同行するということでもありました。アイヌのツアーについては、グァテマラでの訪問先や日程はレコムが協力して決めました。
 日本からの参加者は、アイヌ女性8人(うち子ども3人)と在日朝鮮人1人、そして非アイヌの日本人6人の計14人でした。それに現地でコーディネートと通訳を引き受けてくれた石川智子さん。車2台での移動となりました。

10月2日 首都
 ツアー一行は10月1日に私と同じ夜9時到着の便で無事グァテマラに到着し、翌朝からDEMI(先住民族女性擁護局)でペルーから来た先住民族女性たちと一緒に記者会見をしました。これは、世界の違う地域の先住民族女性同士が交流・連帯していることをマスコミを通じてPRするために行われました。
 そのあとコナビグアの事務所で、青年部の代表をしているロセンダさん(グァテマラ基金で支援しているカルメンさんの娘さん)にコナビグアの活動について話を聞きました。コナビグアの活動の中では、内戦による精神的な問題のケアについて、実際にどのような活動が行われているのかなどの質問が出ました。ロセンダさんの答えに加え、石川さんより、被害者と加害者が親せき同士であるなどの理由で、未だに家族にすらなかなかそのときの話をすることができない現状の中で、心の中に閉じこめていた悲しみや苦しみを口にし、涙を流し、そのつらさを仲間とわかちあうことができるだけでとても効果のあることや、精神的苦痛からくる頭痛などに対しマッサージをするといった話を皆さん興味深そうに聞いていました。
 午後は大きな会場で、午前中のメンバーに加え、グァテマラのシンカ民族やガリフナ民族の女性も交え、フォーラムをしました。フォーラムでは、まずマヤの儀式から始まり、それぞれの活動や現状を社会的、経済的、文化的に先住民族の女性たちはどう貢献してきたか、という視点で発表しました。女性たちが作り出す織物などの民芸品が現金収入につながっていることなどが紹介されました。苦しかった過去を乗り越え、今ある女性たちの存在意義、そしてその未来を語るすてきなフォーラムでした。
 日本からは「アイヌの女の会」の代表の島崎さんと、在日朝鮮人の皇甫(ふぁんぼ)さんがフォーラムに加わり、石川智子さんが通訳として付いていったため、本来なら私がきちんと通訳せねばならないところ、私の語学力が十分でなく、特にすばらしかった司会の方の最後のまとめをうまく訳すことができず、本当に申し訳なかったです。

10月3日 首都→チマルテナンゴ県サン・ホセ・ポアキル市パレイ村
                      →キチェ県サンタ・クルース・デル・キチェ市

 翌日3日からは首都を出発して地方へ出ました。まずはアナさんの所です。アナさんの家に着くと、たくさんの女性たちがお昼ごはんの用意をしていました。そこで砂肝の入った炊き込みごはんと熱々のトルティーヤ(トウモロコシを加工した主食)の朝食をいただき、すでに皆満面の笑顔。私はグァテマラ到着からはや5日目にもかかわらず口にできていなかったフリホーレスがあまりに恋しく(笑)、アナさんにこっそりお願いしてちょっとだけもらいました。これ一日1回は食べなくっちゃグァテマラに来た気がしませんから(笑)。
 実はアナさんによると、その日の催しは2千人ぐらい集まっちゃうかも、と聞いていました。石川さんに言わせれば、普段は数ケツァルの負担(交通費)でもなかなか集まらないのにそんなに来るわけないよ、とのことでしたが、会場へ行ってみれば人人人・・・2千人、いたかも(笑)。徒歩で何時間も歩いてきた人もいれば、みんなで車をチャーターして来た人もいました。あまりに多すぎて形式張ったことしかできず、ツアーの皆さんはちょっと残念だったようですが、島崎さんのアイヌ民族の話を食い入るように見つめて聞き入っていたポアキルの女性たちを見る限り、それはあの場にいたたくさんの人にとって大きな励ましとなったに違いありません。
 お昼はまたアナさんの家で、今度は鶏のカルド(スープ)をいただきました。ツアーの皆さんはこれが一番おいしかったみたいです。ビールをちょっと飲んでご機嫌になったアイヌの人たちが「酔っぱらいの歌」を歌えば、グァテマラの人たちも大喜びで、本当によい交流ができました。
 食後はアナさんの日頃の活動の様子を車座になって聞きました。アナさんだけが答えるのではなく、各集落から集まった代表や男性陣の話もあり、アナさんの活動が幅広く、そしてよく地域に浸透していることをうかがわせる集まりとなりました。
 「グループ内で考え方の食い違いなど、問題が起きたりしませんか」との問いには、「そんなことは起きたことはない」との優等生のお答え。みんなで力を合わせてひとつのことに取り組んでいく強さ、そしてそうでなければ何も始まらない、アナさんたちの前に立ちはだかる壁の厚さに言葉がありませんでした。
 
10月4日 キチェ市→キチェ県チチェ市トゥルルチェ村→キチェ市
 4日はトゥルルチェ村に向かいました。トゥルルチェの女性たちはコナビグア創設当初からコナビグアの活動に積極的に参加し、内戦の弾圧が最も激しかった80年代初頭に軍の手足となって虐殺他を繰り返した責任者に対し、女性たちが裁判を起こして勝訴するなど、大きな成果を上げています。現在はカトリック・シスターのマルーカ・シプリアノさん(内戦中の人権侵害の記録『虐殺の記憶』日本語版出版記念で2000年に来日、スピーキング・ツアーを行う)がカリタス・ジャパンの支援を受けて女性たちの組織強化・生活改善に取り組んでいます。
 その女性たちに会うために、トウモロコシ畑が広がるキチェの美しい景色の中にある小高い丘の上の聖地を訪ねました。トマサさんという女性のマヤの司祭さんがそこで儀式を行ってくれました。マヤの儀式ではろうそくがとても重要な役割を果たしていますが、トマサさんがひとつひとつ、ろうそくやチョコレートなどの供え物の意味を説明してくれ、とてもわかりやすかったです。
 儀式では、亡くなった人たちの供養や、それと合わせて祖先から力を受け継ぎ、これから歩んでいく道に対しての道標を授かるといったことが行われました。グァテマラの人たちだけでなく、アイヌの人たちも亡くなった人の名前を挙げて供養をしてもらい、祖先の力と道標を授かり、皆さんとても感激していました。
 その後、お互いの踊りや歌の披露などの交流が行われました。特に私たちにとって衝撃的だったのは、内戦当時を再現したパフォーマンスと実体験の告白でした。涙を流しながら夫が殺された時のこと、軍に追われて山へ逃げたことなどを次々に話す女性たち。つらい体験は思い出すだけでとても苦しいことだと思いますが、それをあえて私たちの目の前で話してくれたことに感謝するとともに、それに堪えうるだけの力を身につけた彼女たちの強さと、それを可能にした活動の重要さを身に染みて感じたことでした。

10月5日 キチェ市→ソロラ県サン・フアン・ラ・ラグーナ市
                         →サンティアゴ・アティトラン市

 次に訪れたのは、アティトラン湖のほとりのサン・フアン・ラ・ラグーナ市です。ここでは最近、天然染色がさかんになっており、その天然染色の糸で織物をしているコニック(全国先住民族農民調整委員会)の女性のグループを訪問しました。
 天然染色では、バナナの茎を煮たものを定着材に用いたり、ニンジンなどの従来なかった新しい材料を用いたりと、おもしろい話がたくさん聞けましたし、それぞれの作業を実際にやって見せてくれたので、とてもわかりやすかったです。アイヌの皆さんも織物や染色、刺繍、編みバッグ作りなどをするので、技術面でお互いに非常に関心があり、よい交流ができたと思います。
 お昼に用意してくれたアティトラン湖で捕れた魚のトマト煮と野草のスープはお腹も心も満たされる味でした。
 
10月6日 サンティアゴ・アティトラン市→キチェ県チチカステナンゴ市
 翌日はサンティアゴ・アティトラン市内の、2年前にハリケーンで被災したパナバフ村を訪れました。サンティアゴは内戦時に住民が団結して軍と対峙し、犠牲者こそ出したものの、駐屯地から軍を追い出したという住民力の非常に強い地域のひとつです。しかし、やっと内戦の苦しみから脱出したのに、今度はハリケーン災害という困難に見舞われてしまいました。今も仮設の避難所暮らしを続けている人たちが大勢いますが、その中の女性たちがグループを作って、織物やミシン技術の習得などに取り組んでいます。ハリケーンによる土石流が村を襲ったときの話も聞かせてもらい、トゥルルチェ同様、つらい体験を話してくれた話し手に感謝しました。
 また、避難所に移ってきた当初、着るものもないときに、近くでホテルを営む米国人のスーシーさんが既存の民族衣装を持ってくるのではなく、織機と糸を持ってきてくれて、織をしている間は悲しみを忘れて癒されたという話を聞きました。「織」というものがマヤの女性たちの中でとても大切なものだということを感じるとともに、ポアキルで「織物をするのは大好きだけれど、コナビグアの活動で忙しくて織る暇がない」と嘆いていたアナさん、ルシアさん、カルメンさんのことを思い出しました。彼女たちにはこれからも体を大切に、がんばってほしいです。
 私はハリケーンが襲った約2ヶ月後にこの地を訪れたのですが、そのときには湖に面した岸があちこち崩れ落ちていたのもすっかり緑に覆われてわからなくなり、パナバフを襲った土石流の痕跡もトリマン火山がすっぽり雲の中で見えず、ただパナバフの中心地に堆積した大量の土砂だけが、当時の惨状をかろうじて映し出していました。布張だった仮設住宅はベニヤ板で補強され、女性たちはサンティアゴの民族衣装を身にまとい、当時よりはずっとましになったように見えました。しかし、それはきっと表面的な部分だけなのでしょう。今回は避難所の中を歩き回ることもしなかったし、2年という長い月日をこの状況で暮らしている人たちに話を聞くのもためらわれ、目をそらすようにして避難所を離れました。そんな非力な自分を情けなく思いながらも、根本的な解決のために、新市長にも全力を尽くしてもらいたいと思いました。
 この日で交流などの主な日程は終了。その日のうちにチチカステナンゴに向かいました。

10月7日 キチェ県チチカステナンゴ市→サカテペケス県アンティグア市
 最終日前日はマヤの伝統と観光産業が一体化したチチカステナンゴの市場と、世界遺産に登録されている旧都アンティグアでのんびりと過ごしました。
 アンティグアは青年海外協力隊として初めてグァテマラにやってきたときに、1ヶ月半ほど語学訓練で滞在しましたが、相変わらず私には肌の合わない土地で(笑)、わずか半日でぐったり。そんりさ前号で野崎京子さんも書かれていましたが、その頃と比べ、路上や公園の広場で民芸品を売っていた人たちは完全に排除され、余計に息苦しい町になっていました。アンティグアに来てまで普通のメルカド(市場)で買い物と息抜きをしている自分にやや苦笑・・・
 翌朝は朝一番で空港へ向かい、昼の便でグァテマラをあとにしました。旅の間中、私たちに安心安全と笑いをたっぷりくれた運転手のヘラルドとエステバンともお別れ。楽しい旅をありがとう。

 今回の旅は、常に未来を見つめる旅となりました。お互いに勇気と希望をわかちあう旅でした。ただ、その分、グァテマラが抱える暗い過去、そして現実は少し見えにくかった気がします。それでも、やはり先住民族として差別を受けてきた参加者の皆さんは、敏感にそれを感じ取っていたように思います。移動の間や宿でたくさんの話を聞かせていただき、私にとってもとても貴重な体験をさせていただきました。
 特に、同じ先住民族としてたくさんのことをマヤの人たちとわかちあうことができるアイヌの女性たちが訪ねていくことは、私の大切なグァテマラの女性たちの大きな励みとなったことがものすごくうれしく、アイヌの皆さんにとても感謝しています。
 反省点としては、ちょっと欲張りすぎてスケジュールが詰まってしまい、自由時間がほとんど取れなかったこと。あと、個人的には普通の市場(食料品や日用雑貨などを売っている市場)を見せられなかったこと。皇甫さんに見たいと言われていた豚脂の石けんも結局、期待に応えられず・・・皆さん、ぜひまた行きましょう!
 石川さんとのグァテマラの旅も3度目になり、毎回とてもたくさんのことを気づかされ、行くたびに自分の足りないところ、そして勘違いを認識させられると同時に、いつもグァテマラのすてきなところ、本当のグァテマラの楽しみ方を教えてもらって、隊員時代より格段にグァテマラを好きになり、そして大切に思うようになりました。私は白いご飯がないと生きていけないので(食べることばっかり・笑)、石川さんのようにグァテマラに「住む」ことはできませんが、日本でできることをしっかりやっていきたいと思います。


カレンダー、無事売り切れました。皆様のご協力ありがとうございました。
今年も2008年版の販売を検討しておりますので、またよろしくお願い致します。


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2006年8月30日

少し遅くなりましたが、8月の終戦に関連してアナさんの講演会要旨を高知新聞が掲載してくれましたので、ご紹介します。


【高知新聞 平成18年8月15日朝刊 掲載】

グァテマラ内戦終結10年
先住民族女性組織 ペレスさんの講演から 上
「軽視された人命 虐殺遺体発掘にも壁」

 内戦終結から10年を迎えた中米・グァテマラで、先住民族女性の権利向上や秘密墓地の発掘に取り組んでいるマヤ先住民族の女性組織「コナビグア(連れあいを奪われた女性たちの会)」の創設メンバー、アナ・ペレスさん(39)がこのほど講演で来高していた。「私たちの子どもや孫の世代が民主的で平和な社会に生きられるように活動を続けたい」と語るペレスさんの講演要旨を2回にわたって紹介する。

◇      ◇

 コナビグアは、まだ軍の力が大きく、先住民族が移動も自由にできなかった1988年、女性が団結して問題解決を図ろうと発足した。現在、グァテマラ全国11県で活動し、メンバーは1万2千人ほどだ。
 マヤ女性は、先住民族であること、女性であることの二重の意味で差別されてきた。女性は子どもを産むだけの存在で何の価値もない、とされてきた。学校に優先的に行くのも病院に連れて行ってもらえるのも男の子。その状況を何とかしようと活動してきた。
 私たちは内戦中から、軍による人権侵害の告発を始めた。軍の弾圧が最も激しかったころ、反政府ゲリラの殲滅(せんめつ)作戦、焦土作戦が展開された。軍は「水を干上がらせなければ魚は殺せない」と、先住民族が居住する地域をターゲットに皆殺しを始めた。魚はゲリラで、水は先住民族。ゲリラに関係あろうとなかろうと地域の人々を殺す作戦だ。その中には多くの子どももいた。
 軍に殺された人々は、山中に捨てられたり、谷や大きな穴に投げ込まれた。私たちはそうした秘密墓地から、愛する家族の遺体を発掘して聖なる場所に埋葬する重要な活動もしている。遺族は遺体を取り戻したいと思っているが、時間や現実に向き合う苦しさなどの犠牲を伴う。
 遺族の同意を得て、秘密墓地の土地所有者と交渉し、役所の許可も得て発掘を進める。しかし、土地所有者の多くは軍や加害者側。発掘によって殺された人が明らかになるので、加害者側はなかなか許可しない。うまく発掘にこぎつけても、加害者や軍関係者の脅迫がつきまとう。まだ多くの遺体がはっきりどこに捨てられているのかも分からない状況だ。
 内戦中、人の命には何の価値もなかった。虐殺を免れても、山中に逃げたり、メキシコに逃げ込んだりして、つらい生活を送ってきた。多くの女性が心の深い傷を吐き出せず、体の痛みやまひなどの症状を訴え、非常な貧困状態の中にある。
[写真:政府軍に殺された人々が埋められた秘密墓地の発掘現場(98年8月、チマルテナンゴ県ショコショル=須崎市出身の古谷桂信さん撮影)]


【高知新聞 平成18年8月16日朝刊 掲載】

グァテマラ内戦終結10年
先住民族女性組織 ペレスさんの講演から 下
「苦しみを語り継ぐ 子どもたちの未来のため」

 グァテマラ政府は内戦中の「大量虐殺」について認めていない。あくまで政府軍と反政府ゲリラの戦闘としている。それが真実でないことは多くの被害者が知っている。犠牲者のほとんどは武器を持たない民間人、私たちの家族だった。
 私たちのグループ「コナビグア」は、虐殺の生存者や目撃者を集め、裁判を起こすことへの協力もしている。多くの女性はその時の恐怖で、何が起きたかを話したがらない。真実を話すと復讐(ふくしゅう)されるのではないか、同じことが起きるのではないかという恐怖がある。でも、私たちは恐怖を乗り越え、この苦しみの歴史を子どもたちに語り継がねばならない。
 私たちは軍による先住民族の強制徴兵に対する反対運動も内戦中から展開してきた。長い時間かかったが、内戦後、兵役か社会奉仕活動かを選べる新しい法律ができた。
 内戦中、軍は各村に自警団を組織し、村人をコントロールしてきた。コナビグアの活動と利害が対立する人は私たちの活動を妨害し、村の中で相互不信も生まれた。私たちはマヤの共同体のあり方の回復、奪われた尊厳の回復にも努めている。
 マヤ女性の権利とアイデンティティーの確立も活動の大きな柱。女性の意見を政治に反映する活動をしている。学校に行く権利が女性にもあることなどを教える女性自身の意識化教育、大人の女性のための識字教育、若者や子どもたちに女性の権利について直接話し掛ける教育を行っている。
 昨秋、ハリケーンで主食のトウモロコシ畑が軒並みやられた。今年は食料品の値段が上がり、この状況を乗り越えられるか、心配している。出稼ぎ先のプランテーションも労働条件が過酷。多くの人が病気になって帰ってくる。女性の手仕事は価値がないとされ、かごを3日かけて12個作っても収入は100円ほどで何も買えない。現金収入が少なく、食べるのもやっとだ。
 状況は厳しいが、ノルウェーやスペインなどから支援が届いている。貧しい家の少女が学校に行く奨学金などで、最も支援が必要な人に優先的に渡している。
 私は内戦中、死体を乗り越えて逃げなければならない経験をした。私たちの目標は子どもや孫の世代が、私たちが受けた苦しみを繰り返すことなく、民主的で平和な社会に生きられるようにすること。
 内戦によって、木は破壊された。しかし、根は残った。その根から新しい葉を出して育てていかなければならない。子どもたちに、より良い未来を手渡したい。その思いが私たちの活動の源だ。
[写真:「子どもたちに民主的で平和な社会を」と語るアナ・ペレスさん(高知市の男女共同参画センター「ソーレ」)]

[ズーム] グァテマラ
北米と南米の境に位置し、面積は北海道と四国を合わせたほど。人口は1295万人(2004年)。1950年代から軍事政権と反政府ゲリラの間で内戦が起き、20万人以上が殺され、100万人以上が国内外に逃れた。96年に内戦は終結したが、貧富の格差、社会的不正義などの問題は未解決のまま。本県には現地で作った商品を販売する、グァテマラ生産者支援ネットワーク「みるぱ」事務局(吾川郡仁淀川町、栗田桂子さん)がある。

記事:高知新聞 社会部 記者 竹村朋子

2006年7月6日

6月12日に来日したアナさんは無事予定を終え、昨日グァテマラに向けて旅立っていきました。コナビグア招聘実行委員会>事務局(レコム)>事務局長としてはホッとしました。このツアーを企画してから、あちこちで講演してほしいと依頼があり、結局ものすごい強行スケジュールとなってしまいました。アナさんは本当に疲れたと思います。それでも各地の反響は予想以上で、アナさんに感謝、感謝です。

一時は資金不足で危ぶまれたレコムのコナビグア支援も、ツアー中に皆様の募金がかなり集まり、今年は何とか支援を継続させることが出来そうです。しかし、グァテマラ基金は慢性の資金難に陥っており、今回は毎年こうした活動を行っていくことの大切さを実感しました。ご協力頂いた皆様、ありがとうございました!また今後ともグァテマラ基金へのご協力、よろしくお願い致します。



2006年6月30日

去る6月22日にグァテマラからマヤ先住民女性ででコナビグアのリーダのひとりであるアナ・ペレスさんを招いて高知市と四万十町(窪川小学校)にて講演会を行いました。

22日に行われた高知での講演会は平日夜、しかもほとんど宣伝していなかったにもかかわらず、26人の方が集まってくださいました。前半はグァテマラの話やコナビグア全体の話をアナさんにして頂き、休憩を挟んで後半に質問を受けて、アナさんに答えて頂きました。

アナさんはスペイン語が通じないとわかっていても、ひとりひとりの顔を見つめ、目を合わせ、力強く話してくれました。時折力が入りすぎて、新川さんの通訳のために区切りながら話さなければいけないことも忘れてしまったりするほどでした。

質問では、識字教育や女性の権利について、マヤの祭りについてなどの質問がありました。私が最後に「コナビグアの活動の中で、楽しかったことや、やっていてよかったと思ったことは何ですか」と尋ねると、今までくじけそうになったことは何度もあり、そのたびに内戦のことを思い出して、二度とあのようなことがあってはいけないという強い思いで活動していると答えてくれました。そして、村の女性たちや一緒に活動している仲間にあたたかい言葉をもらったときや、たまに小さな贈り物をもらうことがあり、そういうときは非常にうれしいとのことでした。

最後の質問にアナさんが答えると、会場からは自然と大きな拍手がわき起こり、「来てよかった」と多くの人に言って頂きました。高知新聞の記者さんも取材に来てくれ、後日とりまとめて記事にしてくださるとのことですので、掲載されましたらまた皆さんにご紹介したいと思います。

翌日の窪川小学校では、4~6年生約200人を前に話をしてもらいました。村の女性(子どもたちを含む)の暮らしや、アナさんが子どもの頃の学校に関するエピソードなど、子どもたち向けにわかりやすい話をしてくれました。自分の娘を学校にやれなかったことを悔い、孫たちには平和な社会で暮らしてほしい、学校にもちゃんと行かせてやりたいと語ってくれました。日本の学校を見てよけいにそういう思いが強くなったのかもしれません。

4年生には少し難しかったし、通訳と交互の進行はなかなか集中力を持続させるのが難しかったようですが、アナさんはみんなちゃんと聞いてくれたと喜んでいました。終了後は子どもたちに囲まれて写真を撮ったり、授業の様子を見学したりしました。特に朝から午後まで授業があると知ってびっくりしていました。(グァテマラでは午前中しか授業がありません。)古谷さんに写真を撮ってもらい、グァテマラの子どもたちに見せてあげるのを楽しみにしていました。

窪川小学校ではフジ系列の地元のテレビ局が取材に来て、当日夕方のニュースで流れたので、古谷さんのお父さんが録画してくださり、アナさんにプレゼントしました。

岡山あたりから元気が出てきたという新川さんの言葉通り、アナさんは連日の疲れも見せず、移動の車中では冗談ばかり飛ばし、お世話になった古谷さんのご実家ではマリンバ(木琴を主体としたグァテマラの民族音楽)に合わせてマヤのダンスも披露。私もまたいつかコナビグアの事務所を訪ねて、アナさんに再会する日を楽しみにしたいと思います。



2006年5月17日

石川智子さんが5月7日にグァテマラに帰国してから、メールが届きました。なんと、4月7日に殺害されたのは違うイシュバランさんだったそうです。2人の犠牲者が出た、という事実は変わりませんから、うれしい知らせではありませんが、正直ホッとしました。あたたかい言葉を頂いた皆さんには感謝しています。知り合いであろうとなかろうと、こういった出来事が2度と起こらないようになることを祈って、お知らせまで。


2006年5月2日

6月16日~7月4日にかけて、コナビグア(連れあいを奪われた女性たちの会)のアナさんを日本に招聘して全国スピーキングツアーが開催されます。詳細はスピーキングツアーのページからどうぞ。

なお、スピーキングツアーでは皆さんから賛同金を募っています。ぜひご協力ください!!
賛同金は団体一口5千円、個人一口千円(何口でも)です。

郵便振替
口座名:「グァテマラ基金」
口座番号:00100-6-664427
 * 「賛同金」とお書きください。




2006年グァテマラカレンダー販売中。(このリンクで見本が見れます。)
1部2000円、売上げは全額グァテマラ支援に
完売しました!皆さんご協力ありがとうございました!!
また来年お願いします。



2006年4月12日

 7日の朝、会社のパソコンで個人メールボックスをチェックすると、「コニックのリーダー2人殺害」との題名が目に飛び込んできました。正直、またか、と思いながらメールを開くと、「サンティアゴ・アティトランの農民組織の代表であるアントニオ・イシュバランさんとその妻のマリア・・・」そこまで読んで目の前が真っ暗になって、その先が読めませんでした。そのときに限っていつも暇な職場でいろいろ用事があり、プリンターで打ち出した文書を取りに行って、プリンターの前でしゃがみこんで目を閉じ、心を落ち着けました。
 用事と用事の合間に、もう一度メールを読み直しました。先までちゃんと読むと、取得したスチテペケスの農園で、とあります。名前もアントニオ・・・私の知っているイシュバランさんとマリアさんはサンティアゴに住んでいたし、名前は確かホセだった。何かの間違いかも、きっとそうに違いない。そう思って午前中を過ごしました。
 お昼休みに郵便局へ行く途中で携帯電話に古谷さんから連絡がありました。翌々日に開催されるレコムの総会の話でしたが、もちろん事件の話も。「私たちの知っているイシュバランさん夫婦なんですか、名前が違うし・・・」と言うと、「石川さんにも確認しましたが、どうもそのイシュバランさんのようです。」との返事でした。さらに古谷さんは「メールを見てないのだけど、むごい殺され方だったのですか?」と私に聞きました。「いえ、銃で撃たれてマリアさんは即死だったそうです。イシュバランさんは病院に運ばれたけど亡くなったそうです。」一瞬の無言が、お互い、少し救われたなぁと感じていることを物語っていました。目の前に広がる晴天で桜が満開の春の風景の中で聞いたその電話でのやりとりは、とても本当とは思えず、何だか夢の中の話のようでした。

 イシュバランさんとマリアさんには、昨年12月にグァテマラに行ったときに、被災地を案内してもらったり、おいしい食堂を教えてもらいました。あまり得意ではないスペイン語で一生懸命話をしてくれました。ハリケーンで失った収穫と作物の被害に途方に暮れていました。子どもたちをどうやって養おうか、と・・・武装した4人組に自宅を襲撃され、マリアさんは即死・・・きっと子どもたちの目の前で。被災して苦しんでいる多くの仲間も残し・・・彼らの無念と残された者の嘆きを思うと、なんともやりきれません。
 殺害は金銭目的ではなく、農民組織の代表という理由で殺害されたと思われます。特に、2人の参加していたコニック(土地問題を中心とした全国的な農民組織)では、今年は強気で政府交渉に挑む(道路封鎖やデモなどの直接行動に出る)と明言していることから、この件もあり、見せしめとして殺害されたと考えられています。
 当たり前の権利を、しかも合法的なやり方で訴えていた2人。グァテマラで権利を勝ち取ることの道のりの困難さを痛感しました。


2006年1月5日

 2005年12月13日から、開発と権利のための行動センターの派遣でグァテマラに行ってきました。主な渡航目的は、ハリケーン災害の現状把握と支援ニーズ調査及びそれに基づく助成金申請書の作成です。
 現地にいる石川智子さんの事前情報により、今回は特に被害の大きかったサン・マルコス県とソロラ県に絞って、智子さんとともに訪問しました。

 サン・マルコス県では、事前に連絡を取り合っていたカトリック教系の農民支援組織、MTCに主に話を聞き、高原部のシビナル市・コミタンシーヨ市と、高原をしばらく海岸の平地方面へ下ったエル・ロデオ市に行きました。
 シビナル市では土砂崩れにより道路や家、畑が大きな被害を受けており、また山中の尾根筋にはいくつもの大きな亀裂が走っていて、次の雨期にはまた崩れるのは確実と思われます。地質は砂地で、薪を得るための森林伐採や、斜面に作られた道路がより被害を大きくしているように思われました。
 コミタンシーヨ市では、みるぱでいつも商品をお願いしている布織りの女性グループを訪ねました。最初はグループの活動など楽しくおしゃべりしていたのですが、あるおばあちゃんが畑が流された話を始め、そのうち泣き出して、みんなも涙しながら自分も、自分もと、状況を話してくれました。ほとんどの人が川沿いの平地に畑を作っており、増水した川によって多くの収穫を失ってしまったとのことでした。それでも、お金や食料をもらうより、自分たちの作ったものをもっとたくさん、もっといい値で買ってもらうことで生活が成り立っていくのだと力強く語ってくれました。みるぱとしても、彼女たちの生活が少しでも楽になるように、次の仕入れに向けてがんばりたいと思います。
 エル・ロデオ市では、高原部の土砂崩れから派生した土砂と、ものすごい量の水が押し寄せ、両川岸が流されて川幅が数百メートル規模に拡大し、水が引いたあとは巨石がゴロゴロする荒れ地へと変貌していました。もちろん橋という橋は流され、しばらく陸の孤島状態が続いたとのことでした。サン・マルコス県のこの地域はコーヒーの大農園が広がる地域で、農民たちは安価な労働力として奴隷のように働かされ続けています。ハリケーン災害とはまた別に、そういった農園には話では聞いていたものの、初めて訪れました。話してくれた彼らの現状やその風景はもちろんでしたが、労働者の権利を求めて、死の危険も省みず長い間戦ってきた彼らのその顔に浮かぶ濃い疲労の色が、今も目に焼き付いて離れません。
 ソロラ県サンティアゴ・アティトラン市は、パナバフという地区が土石流によって壊滅するなど、1000人を超える死者・行方不明者を出した国内でも最悪の被災地です。まずは仮設住宅の建ち並ぶ避難所を訪れました。厚めのビニールシートで作られた粗末な仮設住宅では、シートを切って強盗が押し入るなど安全面の不安や、せまい面積に大人数が暮らさなければならないなど、状況は決してよくありませんでした。それでもまだ仮設住宅に入れた人はましで、多くの家族が今も学校などの施設で避難生活を送っているとのことでした。
 こうした家を失って避難所暮らしをしている人の他に、家は無事だったが畑がやられてしまったという家族もものすごく多かったです。また、一時避難している間に家財道具一切を盗まれてしまった人もたくさんいるようです。こうした家が無事だった人たちには、支援の手がまったく届いておらず、一体どれだけの人がどんな被害を受けたのかという調査すらなされていません。自分の食べるものをなんとか小さい畑で栽培して食いつないできた貧しい人々にとって、畑の収穫がないということは、イコール死につながります。
 パナバフの今も何百人もの人が埋まったままの土砂の上を歩き、切なくて言葉もありませんでしたが、今はこの生きている人たちがいかにこれから生きていくのかを、私たちも死にものぐるいで考えなければいけないと強く思いました。信じられない苦難の道を、絶望せずに希望を見いだして歩いてきた彼らが、この苦境の中も強く生き抜いていってくれるだろうことを信じて、日本からできること、しなければいけないことを、私もひとつずつ重ねていきたいと思います。

2005年10月28日

 グァテマラの写真展も中盤、今日は古谷桂信さんを迎えて講演会をしました。「風の記憶」というビデオの最初の方を見たあと、スライドを使って古谷さんのグァテマラへの思いをたっぷり聞いて頂きました。
 「風の記憶」は協力隊の訓練中に見せてもらいました。同じグァテマラに派遣されるメンバーのリーダーが国際政治が専門だったこともあり、グァテマラの歴史、特に内戦について調べたことをまとめてくれ、ビデオを見たあとにみんなで勉強しました。自分たちのこれから行こうとしている国の、悲惨な歴史と待ち受ける現実に、みな緊張した面持ちでした。それでもそのおかげで、私たちの隊次はグァテマラの現実に目をこらし、それぞれにアンテナを張り巡らし、隠された内戦の傷に思いを馳せながら活動できたように思います。派遣中に出版された「グァテマラ虐殺の記憶」(被害者の証言を元に、内戦下で行われた虐殺の真実を暴いた報告書の和訳)は石川智子さんを通じて隊員のドミトリーに寄付され、図書室でその背表紙を見たことがないほど借りられ続けていました。

 古谷さんのスライドの最初に出てくる村は「チャフル」です。「栗田さん、ネバフは行ったことありますか?」との古谷さんの問いに、「チャフルに何度も行ったので通ってます。」と答えました。ネバフはチャフルへ行く通過地点だからです。
 ネバフ、チャフル、コツァルの3つの村からなるイシル族は美しい民族衣装で有名です。そしてまた、内戦が激しかった(=虐殺が多かった)地域であることも、行く前から知っていました。ある日、民族衣装好きの隊員2人と、JICA事務所に内緒で立ち入り禁止のイシル地域へ向かいました。
 ネバフもよかったのですが、私はチャフルに惹かれました。民族衣装もよかったのですが、赤瓦の木造家屋が並ぶその風景に魅せられたのです。半日の滞在でしたが、友だちもでき、印象深い村のひとつになりました。
 その後、どうしてもまた行きたくなり、他の隊員と二人ででかけました。そして3回目は一人で行きました。以前の2回の訪問ですっかり仲良くなった青年ロドリゴに、新しく始めた農家民宿を紹介してもらいました。宿はアナさんという女性がお嫁さんと一緒に切り盛りしていて、アナさんのもてなしは最高、しかもただの居候ではなく、お金を払って泊まるので気兼ねもなく、すっかり気に入って、その後任地からバスで8時間かかるにもかかわらず、何度も通ってしまいました。
 その間、他では得難い友人との出会いもありました。マヤのアイデンティティーを大切にしながら、村をよくしたいというロドリゴには深い共感を覚え、真夜中まで村の将来について語り合いました。隣の地区まで散歩に出かけ(結局遠すぎてたどり着かなかった)、内戦時の話を聞いたりもしました。思えば当時内戦が終わってまだ5年、ロドリゴは23才、彼は生まれたときから内戦のさなかにいたのです。民族衣装を買おうとして立ち寄った家で出会った2つ下の女の子ロサとも気があって、女性の権利や教育について語り合いました。どちらも村を大切に思いながら、今までの保守的な考えに捕らわれず、新しい風を吹き込みたいという希望に燃えていました。20才を超えても独身で夢を語る2人は村では変わり者でしたが、そんな2人とも私という聞き役を得て、たまっていた思いを熱く語ってくれました。

 協力隊の任期を終え、日本に帰国してから1年半後、レコムのお仕事で幸運にもグァテマラを再訪することができました。そのときもチャフルへ行きました。ロドリゴは高い理想と現実の狭間で悩み、進路を決めかねていました。ロサは念願かなって教師免許を取るために高校に通い始めていました。しかし、金銭面で苦しいことに変わりはなく、手持ちがなかったのであとでお金を送ると約束して村を立ちました。
 後日、日本円にして3万円ほどを、知り合いを通じ、ロサにあらかじめつくっておくように言ってあった銀行口座に振り込んでもらいました。1年後、無事卒業しましたとメールをもらったときほどうれしかったことはありません。

 古谷さんのスライドを見て思い出されるのは、美しい村の風景と、あのとき悩んでいたロドリゴ、教師免許を取ったロサ、おいしいマヤ料理でもてなし、いつも帰りには土産を持たせてくれたアナさん、みんなどうしているだろうか、ハリケーンは大丈夫だっただろうか、いやその前につらい目や事故や、悲しいことにあっていないだろうか、あの情熱を理解してくれる同志や伴侶を見つけただろうか、駆けめぐるたくさんの思い出に思いを巡らせた一日でした。
 

2005年10月10日

関係2団体がグァテマラ支援に動いています。どちらも現地で支援している団体を通じて物資等の支援を行いますので、確実に被災地に届きます。どうかご協力お願い致します。
日本ラテンアメリカ協力ネットワーク

ハリケーンの被害者支援の協力をお願いします

中米を襲ったハリケーン・スタンの被害は日を追って大きくなっています。その中でも最も被害が大きいのがグアテマラです。ソロラ県を中心に国の西部がハリケーンによる豪雨、土砂崩れ、湖河川の氾濫などで多数の家屋が水に流され、死者・行方不明者が出ています。ソロラ県のサンティアゴ・アティトラン一帯では、山が崩れて一瞬のうち2つのコミュニティが丸ごと土砂に飲み込まれてしまいました。道路も破壊され、通信も交通も遮断されています。グアテマラ政府は緊急事態宣言を行いました。

 10月9日付けのBBCニュースによると、ハリケーン・スタンの被害でグアテマラではすでに519人の死者が確認されています(グアテマラ政府の災害防止全国調整会発表による)が、この数はさらに大きくなるでしょう。すでに大きな被害を出した1998年のハリケーン・ミッチの被害を上回っています。全国の被災者は6万8千人にのぼります。

 レコムがこれまで支援してきたコニック(グアテマラ先住民農民組織)の活動基盤の一つはこのサンティアゴ・アティトランですが、CONICからも緊急支援要請が来ています。今すぐに必要なものは、薬、特に傷・怪我の手当てをするための医薬品、飲み水と食糧、衣類、毛布類、遺体を掘り出すためのスコップなどです。

 この状況を受けて、レコムではすぐに支援のための緊急カンパ・キャンペーンを行うことにしました。どうぞご協力をお願いいたします。レコムで集めた寄付はすべてコニックを通して、グアテマラの被災者支援に送ります。

郵便振替
口座名:「グァテマラ基金」
口座番号:00100-6-664427
 * 「ハリケーン被害支援」とお書きください。


連絡先:新川 niikawa@igc.org
          土方 090-3802-1205
URL:http://www.jca.apc.org/recom/
開発と権利のための行動センター

 中米からメキシコ南部にかけてハリケーン・スタンによって大きな被害が出ています。
 アティトラン湖湖畔のサンティアゴ・アティトラン市では、山崩れのために50人以上の死者と800人にものぼる行方不明者が出ているようであり、また太平洋岸低地も各地で交通が寸断し、大規模な洪水の被害がでているようです。
 現時点ではまだ降雨は続き、交通も各地で途絶しているために被害の全容を把握することもできませんが、これまで日本の諸団体と関係のあるグアテマラ各地の組織から支援要請が届いています。

 まだ十分に現地の状況を把握できない中で、まず必要に応じて現地の住民組織、民衆組織が必要とされる食料、資材、薬品等を購入するための資金を提供する方針です。
 開発と権利のための行動センターでは、まず現地の予備費を取り崩す形で緊急のニーズに対応していきますが、資金が不足しておりますので、是非緊急支援への協力をお願いします。
 
郵便振替
口座番号:00230-5-131472
口座名 :開発と権利のための行動センター
*グァテマラ災害支援とお書きください。


開発と権利のための行動センター
http://homepage3.nifty.com/CADE/
問合せ  cade-la@nifty.com

今後他団体などとの連携も探り支援の強化を検討します。

<現地情報など>

●サンティアゴ・アティトラン

 日本とも関係の深い、CONIC(先住民族農民全国調整員会)はグアテマラ各地のコミュニティの連合体ですが、被害の甚大なサンティアゴ・アティトラン市にも数多くのメンバーを抱えています。また日本に来日したこともあるディエゴ・エスキーナ市長も、7日付プレンサリブレ紙で支援を要請しています。
 土曜日には現地入りするとのこと。現在、交通は対岸の街からの船便のみであり、外からの物資の運搬に困難があるが、村内で購入できるものはまだあるとのこと。
 薬、食料、飲み水、スコップ、毛布類が求められているとのこと。
 ここへの支援を最初に行う予定です。
2005年6月18日

グァテマラに対する支援のお願いです。寄付のお願いをしているのは私の知り合いですので、寄付されたお金は必ず支援に使われます。よろしくお願いします。

<グァテマラの小学校に黒板を>
グァテマラ共和国キチェ県サカプラス郡にカセリオ・パナランハという村があります。ここには公立の小学校があり、1年から6年まで172人の子どもが通っています。教師は5人いますが、教室は3つしかなく、2学年ずつ一つの教室を使っています。

この地域の人々はマヤ・キチェ語に近いサカプルテコを話しますが、学校ではスペイン語とサカプルテコの2言語教育を行っています。が、教育省からの予算はほとんどなく、教師の給料を払うと学校の設備費などはまかなえません。地域一帯も非常に貧しく、住民はわずかな現金収入を得るために年に数ヶ月プランテーションに出稼ぎに行かざるを得ません。子どもたちはほとんどが裸足で3食食べられる家庭は少なく、教材その他の購入もままならないという状況です。

各教室には古い黒板がありますが、老朽化していて使い物になりません(チョークで書いてもほとんど読めません)。新しい黒板が必要ですが、教育省に何度も申請していますがなしのつぶてです。教科書を持っていない子どもたちに読み書きや算数を教えるためには黒板の使用が不可欠です。で、この黒板を購入するための支援をお願いできないか、ということです。

理想的には、各学年にひとつ、計6つの黒板を購入したいということです。ここで黒板と言っているのは、白いプラスティックでコーティングされたボード(日本では何と呼んでいるのでしょうか)で、マジックで書いてフェルトや布で消すことができるものです。マジックなどの消耗品は各教師が負担するとのことです。このボードは一つ約600ケツァル(80ドル)で、六つ買うためには480ドル(約5万1千円)必要です。皆さんのご協力をお願いいたします。なお、ご質問等ありましたら新川niikawa@igc.orgまでお問い合わせください。

カンパの振込先は日本ラテンアメリカ協力ネットワークの郵便口座で下記の通りです。

郵便振替口座:00110-7-567396
日本ラテンアメリカ協力ネットワーク
*備考欄に「グアテマラ小学校支援」とお書きください。

<ロサリーナを助けよう>
新川志保子さんから
 ロサリーナは、コナビグア(内戦により夫を殺されたマヤ女性の組織)の代表としてこれまで活躍してきました。昨年からは内戦の被害者への補償を行うプログラムの座長としてがんばってきました。が、これまでのきつい仕事とたくさんのストレスのせいで神経をすり減らし、持病の胃潰瘍に加えて急性盲腸炎になり、入院・手術をしました。もう退院していますが、医者から2ヶ月は安静にしているようにと言われています。
 補償プログラムの仕事は給料がなく、会議のたびに「足代」が出るだけです。今回の入院・手術の費用、そして2ヶ月間の安静期間の生活費と家事・育児の面倒を見てもらう人を雇う費用、そして術後の医者の費用などが必要です。が、ロサリーナさんにはそのお金がありません。幸い、最も大きな支出である入院・手術の費用はヘレン・マックさんが友人・知人にカンパを依頼してくれて、支払うことができましたが、今後2ヶ月の医療費と生活費がまだ必要です。医療費がとのくらいになるかはまだはっきりとわからないのですが、とりあえず1000ドルをめどにカンパを募りたいと思います。

石川智子さんから
 新川さんのメッセージにあるように、ロサリーナの健康状態がとても心配されています。手術自体は順調だったのですが、一週間後、抜糸のために病院へ行った帰り、強盗に襲われてしまいました。
 友人の車で病院を出てしばらく走ったところで車がパンク。タイヤを替え車に乗り込もうとしたところ、3人の武装した男に取り囲まれ、男達が車に乗り込み皆を乗せたまま暴走し始めました。この間、ピストルを突きつけられ、所持金全てと携帯電話を取り上げられました。その後、男達は、ロサリーナさんたちをおろし、車で逃走、その間、ロサリーナさんの傷口は開いてしまったのです。パンクをさせて車を強奪するグループに狙われたのです。
 私がお見舞いした5月15日、ロサリーナは、傷が開いたまま医者にも行かず、様子をみていたままでした。襲われたショックと、医者に行くたびに高い費用がかかるからなのでしょう。我慢強いロサリーナは、いつも自分の身体のことは後回しにして、医者に行ったときには大変な状態になっていることの繰り返しなのです。
 内戦犠牲者の遺族に対する国家補償委員会の代表についてから、正当な給料を得ていないのは本当です。昨年は、平和省から、ほんの少しの手当てを受け取りましたが、今年はそれさえも受け取っていません。
 支援をしていただける方は、以下の私の口座へ振込みをお願いいたします。

千葉銀行 常盤平支店 普通口座 031-2088892 イシカワトモコ

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<グァテマラ>
 中米グァテマラは、メキシコの南に位置する約1200万人が暮らす国で、そのおよそ6割が先住民族であるマヤの人々だといわれています。
 1960年から1996年まで36年間、内戦が続いていました。その中で20万人以上の死者・行方不明者、150万人以上の国内避難民が生み出されました。またこうした死者・行方不明者の9割は非戦闘員であり、その中でもマヤ民族が大きな被害を受けました。グァテマラ社会に存在する民族差別とそれに基づく支配的構造がこうした先住民族に対する暴力を引き起こしたのです。

<コナビグア>
 コナビグアは、まだ内戦の弾圧の厳しいさなか、1988年に設立されました。内戦の中で、夫や子どもたちを政府軍に誘拐されたり、殺害された女性たちが、平和な社会を求めて活動を開始したのです。脅迫にも負けず、女性たちは「自警団」と呼ばれる、軍によって作られた人権抑圧組織の解体を求め、また徴兵制の廃止を求めて運動をしてきました。ロサリーナさんは、設立当時から、リーダーとして活動を続けてきました。
 1996年の和平合意以降、コナビグアは人権侵害の告発にとどまらず、先住民族を代表する組織として、グァテマラをより平等な社会にするために、様々な活動を展開してきました。そうした活動が実って、2003年には軍役に代わる「社会サービス法」も制定されましたし、内戦被害者に対する補償プログラムも動き始めています。しかしグァテマラ社会の中で、先住民族女性が受ける差別や貧困の問題はまだまだ大きく、コナビグアのさらなる活動が望まれています

<新川志保子>
 ワシントン在住。「グァテマラ連帯ネットワーク」に勤務。グァテマラ先住民族の運動を支援し続けている。

<石川智子>
 1993年よりグァテマラにてコナビグアの事務所に住み込み、女性たちの活動に同行している。日本をはじめとする諸外国の支援団体とのパイプ役も果たしている。


2005年1月8日

2004年12月26日に兵庫県西宮で日本ラテンアメリカ協力ネットワーク(RECOM)の
グァテマラ・プロジェクト報告会がありました。早めの年末休暇を取って、
帰省ついでに私も参加しました。報告会の後にはRECOM内に最近できた
作業グループ的位置づけの「グァテマラ支援グループ」の顔合わせ会もありました。

「みるぱ」の活動やRECOMを通じて、日常いつもグァテマラに触れる機会が
あるのですが、久しぶりにグァテマラを思い、行動している人たちに直接
会うことができました。当たり前といえば当たり前なのですが、
「ああ、こういう人たちがいるんだ」ということに改めて感動、うれしく、
心強く思いました。メールでのやりとりだけだと、どうも気持ちが伝わってこなくて、
文字だけが残っていくような感覚があります。それに目や、口調や、表情が伴うと
なんと強いパワーを感じることか!「対話」の大切さと同時にメールの怖さも
実感した一日でした。

そう、今この瞬間にも、世界では、グァテマラでは、苦しんでいる人がいて、
でも絶望しているのではなく、希望を持って前に進もうとしている人がいる。
そして私の周りには、そうした人を助けたい、助けようとしている人がいる。
それを忘れてはいけないし、自分もそのひとりになりたい。

新年を迎え、今年はみるぱ、RECOMとともに新しい一歩を踏み出したいです。


2004年6月20日

グァテマラの写真を撮り続けると同時に支援にも取り組んでいる
古谷桂信さんに「すてきな宇宙船地球号」という番組で前に放映した
「グァテマラのペダルパワー」という放送の録画ビデオをいただきました。
内容も良かったけど、冒頭のグァテマラのありふれた景色に
涙が出そうになるのは、なぜなんでしょうね。
時々目にする写真や映像はグッと来ることがあります。
家にもたくさんポスターやハガキを貼っていて、トイレでネバフの少女と
目が合うたびに、「忘れないで」と言われているような気がしてなりません。
離れてからの時間が経てばたつほど、グァテマラのことが現実と思えなくなる、
そんな自分への警告の現れなのかもしれません。

折しも同期隊員2人からメールが届き、
1人はグァテマラを「老後に住みたい場所」と言い、
もう1人は海外他の国に行って同じだけの時間を過ごしても、
グァテマラほど惹かれる国はないといいます。
それだけ青年海外協力隊での2年間は密度が濃かったのでしょうし、
またグァテマラという国の抱える深すぎる内戦の傷と人々の魅力に
忘れることのできない感情を抱いたということなんでしょうか。

新しい大統領の下に、グァテマラも新しい一歩を踏み出しました。
早くも農民の囲い込みなど、施策に問題が浮上している新政権ですが、
前政権の4年間よりはましなはず。
この新しい4年間でより理解が深まり、さらなる発展を遂げることを祈ります。

2004年4月24日

グァテマラのコナビグア(つれあいを奪われた女性たちの会)で
10年以上活動している石川智子さんを招いて、高知市内で
グァテマラ報告会を行いました。

石川さんの活動は同伴活動といって、暗殺や暴行の危険のある人に
同行し、そうした行為を安易に行えないようにするというものです。
外国人が同行することによって、国際社会が見張っているぞという
意思表示になるのです。

現在ではグァテマラでは和平協定が結ばれ、危険もずいぶんと
少なくなりましたが、女性たちの恐怖は根強く、今も殺されるという
恐怖にさいなまれています。石川さんはそうした女性たちの精神的な支えと
なっています。イラクの人質事件などが話題になっている中でしたが、
石川さんの地道な活動がコナビグアの女性たちの命を救っています。
少しでも、豊かで安全な日本から外へ、目を向けていただくきっかけに
なったのではと思います。

また、今回の報告会では、高知出身のフォトジャーナリストの
古谷桂信さんのご協力により、多くの方に来ていただき、
また寄付もしていただきました。こうした暖かい支援を目の当たりにし、
自分自身も改めてグァテマラのために出来ることを、これからもどんどん
がんばっていきたいと思いました。

    2004年1月5日

    決選投票の結果、ベルシェ氏がグァテマラの大統領になりました。
    新政権のこれからの4年間が、すべてのグァテマラの人々にとって
    すばらしい4年間となるよう心から祈ります。


    2003年11月15日

    11月9日にグァテマラの大統領選挙がありました。
    結果は「今日この頃」にも載せていますが、
    国民大連合のベルシェ氏と国民希望党のコロン氏が1位、2位となり、
    12月28日に決選投票を行うことになりました。
    心配だった現与党の党首で80年代にクーデターによる
    軍政をしいたリオス・モント氏は3位で敗北。
    事前にグァテマラの新聞社が実施した世論調査とほぼ同様の結果だったようです。
    
    これでリオス・モント氏は国会議員の特権を失ったので、
    ノーベル平和賞を受賞したリゴベルタ・メンチュウさんは
    リオス・モント氏を内戦時の虐殺責任者として訴える準備をしています。
    
    現地では特に大きな混乱もなく、無事選挙が済んだようです。
    
    変わって同日に行われた日本の衆院選。
    続くイラクの爆弾テロ。
    世界の平和への道のりはまだまだ遠いのですが、
    希望を持って取り組んでいきましょう。



2003年10月10日
  
日本ラテンアメリカ協力ネットワークの会報が届きました。
私もイサバルのプロジェクトの話を書いたのですが、
そこに載せた原稿をアップしたいと思います。

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   グァテマラ 自然保護区をめぐる住民の闘いと大統領選挙

 7月下旬から8月にかけて、レコム(日本ラテンアメリカ協力ネットワーク)のプロジェクトのお手伝いにグァテマラへ行っていました。今回のプロジェクトは「自然との共存の方法を探る」ということで、今も多くの熱帯林が残るイサバル県リビングストンが対象になっています。

   <グァテマラの森林と今回のプロジェクト>

 文献を見ると、1960年には77%あったと推測される森林も70年には47%、80年は42%、85年32.5%、そして90年には23%にまで減少していると書かれていました。つまりは、現在はもう到底森林であったとは思えない場所(例えばサボテンが点在するサカパ県など)も昔は森林であったということです。リビングストンの調査でも地元の人が言っていましたが、「昔は私たちが好きなだけ伐っても森はなくならなかった。でも大農園(多くが放牧地)が 来てみんな木を伐ってしまった、森がなくなってしまった」のです。
 そして今度は大農園によって土地を奪われた人々が、残されたわずかな土地を切り開き、懸命に生きようとしています。しかし、そのわずかな土地は自然保護区に指定され、思うようにさせてくれません。しかも、熱帯の農業は非常に過酷で、わずかな土地では地力回復を待つ時間が取れず、収穫量は減っていくばかり。より豊かな生活を目指して、苦労して開墾し、手にした土地でも生きていくことが難しい現状です。みんな森が大切だということは、言われなくてもよくわかっています。それでも日々の生活で精一杯なのに、他のことまで考える余裕はないし、どうしたら両立できるのかもわかりません。これは私たちも同じ。一体どうしたらいいのか・・・「それをこれからみんなで考えよう」というのが、今回のプロジェクトの目的です。
 保護区の管理を委託されている環境NGO(環境NGOについてはそんりさNOを参照)もいくつか訪問しました。資金提供している先進国の圧力による影響が多分にあるかと思いますが、そのほとんどが保護区内に居住する農民の生活安定と、コミュニティーにおける環境に配慮した生活様式の確立を目指しており、以前よりは良い方向に向かっているように思えました。少なくとも、違法行為を取り締まるだけのCONAP(保護区管理担当の政府機関)よりはかなりましです。ただ、心から地域住民のためを思ってやっているのかどうかはわかりませんし、そう思っていたとしても、住民の現実を本当に理解できているのかは疑問の多いところです。そこが地域住民を十分理解しているコニックと協力しながら進めていくレコムとの大きな違いです。

   <大統領選挙とリオス・モント>

 あるコミュニティーを訪れていたとき、首都では、そんりさの前号で新川さんが書かれていた「暗黒の木曜日」事件が起こっていました。そのコミュニティーの多くの人たちも、リオス・モント支持集会に参加のため、4km離れた道路まで出てきていました。結局は迎えが来ず、みんな夕方にはコミュニティーに帰ってきたのですが。「行けばお金がもらえる」「食事が出る」「交通費をかけずに首都に行ける」多くがそんな理由のようでした。ラジオで少し情報は入ってきてはいたのですが、新聞もテレビもなし、首都ではまさかそんな大事件になっているとも知らず、翌日普通に帰ってきて、バス会社の事務所からホテルまで歩いて帰りました。
 今回グァテマラに行っている間に、暗黒の木曜日やリオス・モントの大統領選出馬が認められるなど、様々な動きがありました。環境NGOの聞き取りでも、自然保護区の話以外にも現政権や11月の大統領選挙に対する不満や不安が話題になりました。農民の土地取得を支援する政府機関のFONTIERRAでも一向にプロセスが進まないとのことでした。コニックの名前を聞いて顔がこわばる大卒のエリートさんたちでも、FRG(与党、党首はリオス・モント)の話になると意見が一致しました。帰国直前にチマルテナンゴに寄ったときに友人に聞いた話では、少し前にリオス・モントが街頭演説にやって来て、「俺に投票すれば土地をやる、金をやる、さぁ、欲しいやつは前に来てこのノートに名前を書け、ただし、名前を書いて俺に投票しなかったらどうなるか知らないぞ」というようなことを言い、たくさんの人がそのノートに群がっていたそうです。
 電気もない、水道もない、車の通れる道路もないコミュニティーでも、リオス・モントの支持集会の情報は届く。軍に多大な影響力を持つリオス・モントの出馬で、コニックやコナビグアの活動がさらにまた難しくなってくるのも容易に想像できます。レコムのプロジェクトも将来的に必要なら法改正の提言まで行っていくことになろうかと思いますが、それもまた、選挙の行方が非常に気になるところです。


   2003年9月13日

   今回のグァテマラ行きは日本ラテンアメリカ協力ネットワークという
   NGOのお仕事で行かせていただいたのですが、
   仕事の内容は自然保護区に住む地域住民の生活向上と
   自然保護の両立が可能な方法を模索するという壮大なもので、
   グァテマラだけでなく、世界中の途上国の保護区が抱える問題です。
   熱帯の土壌は高温状態によって有機物の分解スピードが非常に速く、
   基本的に農業には向かないのですが、
   生きていくためにはそうも言ってられない。
   なんとか両立できる方法が必要なわけです。
   
   雨期には道や畑が水没してしまったり、
   蚊が多くてマラリアはしょっちゅうだし、でも病院はないし、
   暑いし、電気はないし、水道もなくて水は茶色く濁った川の水・・・
   
   久しぶりに日本から行くと「あー、そうだった」と思うことしばしば。
   協力隊活動を終えて帰国してから1年半とちょっと。
   帰国した直後には、この便利な生活に理不尽さを感じて
   当たり前の日本の生活にストレスを感じたりしました。
   その気持ちを忘れてはいけない、いけないと思い続けて、
   それでもやっぱり日常に流されていく自分がちょっと情けない。
   この1ヶ月のグァテマラの生活で
   少しあのときの自分を取り戻せたような気がします。
   
   お金があるないじゃなくて、
   毎日を精一杯生きること
   モノを大切にすること
   命を大切にすること
   みんなの気持ちを尊重すること
   
   そんな当たり前で、でもすごく難しいこと、
   日本でも、外国でも、
   毎日そういうことを感じて、思い出して、努力して生きたいです。
   
   私にとって、そういう気持ちにさせてくれたのがグァテマラでした。
   


   2003年9月1日

   前回からだいぶ日が経ってしまいましたが、グァテマラより無事帰国しました。
   1年半ぶりのグァテマラは、忘れかけのスペイン語でドキドキしながらも、
   懐かしいなじみのある場所に変わりはなく、1ヶ月とちょっとといえど、
   楽しい時間を過ごすことができました。
   
   11月に行われる選挙に向けて国内は揺れ動いており、
   暴動、犯罪、政治闘争などにあふれていました。
   特に今回の大統領候補には80年代に激しかった虐殺の
   首謀者であるリオス・モント元将軍がおり、有力な候補の1人です。
   リオス・モントが党首を務めるFRGは現政権を握る与党でもあります。
   FRGは今までの政権以上に汚職や脅迫を重ねており、
   国内外の知識層や人権活動関係者から大きな反発を招いています。
   立候補受付期間が終了し、選挙戦が激しさを増す中、
   FRGによる脅迫や違法な選挙活動が公然と行われており、
   わずか1ヶ月ちょっとの滞在でも、
   グァテマラにおける憲法や法律の効力の弱さを見せつけられました。
   また、仕事でインタビューを行うたび、どの人にも現政権への不満と
   新政権への期待と不安を感じさせられました。
   現在立候補しているどの人が大統領になっても
   すべてが一気に良くなるようなことはあり得ないにしても
   リオス・モントだけは大統領になってはいけない。
   すべてのグァテマラ国民の英断を祈ります。
   
   さて、これから少しずつ1ヶ月間の経験から
   皆さんにお伝えしたいこと、楽しかったこと、びっくりしたことなどを
   アップしていきたいと思います。
   良ければぜひ、感想をお聞かせください。

   

   2003年6月28日

   今日、グァテマラのページをアップしました。
   来月からグァテマラに行くことになって
   もう一度グァテマラを見つめ直してみようかなと思っています。
   歴史的事実やニュースなど、もしかしたら思い違いから
   間違っていることがあるかもしれません。
   そのときはぜひ掲示板でご一報ください。
   よろしくお願いします。
   とりあえずは「Guatemalaという国」のページを
   ちょっと文字ばかりで申し訳ないのですが読んでやってくださいね。

   


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